「スカイウェーブジャーナルNo.6」の「天龍型」の記事を検証する – 1/700で天龍型軽巡をつくる: 15

「スカイウェーブジャーナルNo.6」の「天龍型」の記事を検証する

先日、読者の篠崎敏彦氏のご厚意で、「スカイウェーブジャーナルNo.6」の「天龍型」の記事を読んだ。

10年程前に刊行されたピットロード発行の冊子 で、「天龍」の平面図が載っているらしいという噂があり、製作当初より興味があったものの入手が叶わなかった資料だ。

全文転載は著作権上の引用の範囲を超え、問題があると思われるので、既存資料に記述のない事項を中心に、要点の引用・まとめと所感について述べたいと思う。


記事の要点

  • 執筆者は、艦船模型スペシャルなどで活躍中の畑中省吾氏
  • 「天龍」と「龍田」の識別点の一つとして、「羅針艦橋前端が平坦でやや前傾しているのが『天龍』、半円で垂直に立っているのが『龍田』とある
  • 1942年 (昭和17年) 時の「天龍」の上面図・右舷側面図が掲載されている
  • 掲載の艦型図は公式図面ではなく、「Japanese Cruisers of the Pacific War」の掲載図面を基に作図されている

計4ページにわたる記事だが、上記以外については、光人社の「日本の軍艦 8」に掲載の内容と概ね一致する内容である。
また、戦時の武装変遷については、後年、学研より刊行された「真実の艦艇史2」の田村俊夫氏の考察の方がより詳しく、この記事固有の注目点としては上記になるだろう。

図面について

記事中では、畑中氏が根拠となる公式図を探された経緯が記されているが、氏の人脈を以てしても公式図の現存は確認できなかったようである。
元となった「Japanese Cruisers of the Pacific War」には艦内側面図も掲載されており、その内容の妥当性から、畑中氏はこの図面は何らかの公式図面を下敷きにしたものと推測されている。

ただ、元図からそうなのか、畑中氏の判断によるものなのか、後部発射管のスキッドビームと前後の予備魚雷格納所が完全に省略されており、後部操舵室と探照灯台の位置関係も明らかに写真と異なる

また、「日本の軍艦 8」に掲載されている艦形図と比較したところ、写真からの推測では一致しえない上甲板平面がほぼ同一のラインで描かれている。また、前述の後部操舵室の相違も同様である。

「天龍」の艦型図の比較
両者の図面の比較。上甲板平面からすると、準拠図面は同じものと思われるが、煙突や船首楼後端位置の相違が解せない。

その一方、両者では船首楼の長さや煙突の位置などに相違があり、この二者の図面は同じ元図から異なる経緯で模写・複写を経たものではないかと推測する。ゆえに、両者のいずれが正確であるかは断定できない

おそらく、元図が公式なものであっても、建造・改修用の正確な図面ではなく、計画時の草稿やスケッチレベルのものだったのではないかと推測する。

ただ、確信はないが、畑中氏の図面は、船首楼の長さが「平賀譲 デジタルアーカイブ」の船体断面図[1] に近く、艦橋横幅はアジ歴所収の平面図 [2] とほぼ一致するので比較的正確なのではないかと思う。

よって、より正確な図面に基づいた模型を作りたい方への私のお勧めは、

である。
個人的には、「天龍」の図面目当てで同書を血眼になって探す必要はないと思う。
とはいえ、「天龍型」の推定図自体が少ないので、艦スペなどで再掲していただけると助かる人は多いと思うのだが。

「龍田」艦橋について

前述のとおり、畑中氏は「龍田」の羅針艦橋前端は半円平面であると断言されているのだが、判断の根拠が記されていない。
竣工当初は、直下の司令塔の平面そのままの形状であったので半円に違いないが、それは「天龍」も同じ。
そして、艦橋の改装の項で「後年同様の改装を行った『龍田』の円弧直立式~」とあるので、改装後も半円平面であるとの解釈なのだろう。

現状、改装後の龍田の艦橋を写した写真は1938年 (昭和13年) と1941 (昭和16年) の2葉 [3] しか知らないので、そこから半円説について考えてみる。

「龍田」の艦橋 左: 1938年 (昭和13年) 右: 1941年 (昭和16年)
写真からだと、半円平面と断定するにはちと厳しい。

まず1938年 (昭和13年) のほぼ正横の写真より、羅針艦橋前端と司令塔前端は面一であることが判る。
そして、1941年 (昭和16年) の斜め前からの写真、よくみると、司令塔に落ちる羅針艦橋の影が不均一だ。
仮に司令塔と弧を同一とする半円とした場合、前端部分に影は落ちない

司令塔よりやや大きめの弧とした場合は不均一な影が落ちるが、このように前端に行くに従い大きく影が落ちるには、羅針艦橋前面が司令塔より突出している必要がある。だが、これは先の正横の写真より否定される。

となると、この影の落ち方を矛盾なく解釈するには、前端左右に「カド」があり、中心線では前端が司令塔と面一であるものの、前端左右では少しはみ出す、と云った形状が自然かと思われる。
すなわち、前面傾斜こそ異なるものの、「龍田」と「天龍」の羅針艦橋の床平面は同じではないか、というのが私の見解。

一方、篠崎氏は同じ写真から異なる見解を示されている。

「天龍」: 1937年 (昭和12年) と「龍田」: 1941年 (昭和16年) の艦橋
光の向きはあるにせよ、確かに「天龍」同様に角がトガっているなら、もっと大きく影が出ていてよい。

ほぼ同角度から撮られた1937年 (昭和12年) の「天龍」の写真 [4] と比較した結果、「天龍」は前端のカドの形にそのまま影が落ちているのに対し、「龍田」の写真では影の落ち方が少なく、「天龍」に比べ丸みを帯びていた床平面ではないかということだ。
但し、その場合でも畑中氏の提唱する半円では説明がつかないことは、私も篠崎氏も一致した見解である。

なるほど、確かに解像度が低いので断定には至らないが、篠崎氏の解釈でも矛盾はない

試しに、窓枠のパーツに干渉しない範囲で側壁と天蓋の前端カドを丸めてみた。
これは「球磨」や「多摩」に雰囲気が似て、中々格好良い。(「球磨」「多摩」は巡洋艦の艦橋の内で、最も好きな形状なのだ)
調べてもわからないモノは格好良い方を採るというのが私の信条なので、今回はそのまま角を落とした形状で仕上げてみた。

羅針艦橋の角を丸めた「龍田」と、角ばった「天龍」の比較
こんな感じ、影の出方をみると、割と正解に近い気がする。

篠崎さん、ありがとうございました。


と云う訳で、半年以上「喉に刺さった小骨」であった、スカイウェーブジャーナルの記事は、思いがけない形で見ることができた。
残念ながら記事そのものから直接的な収穫はなかったものの、「龍田」の艦橋形状のアレンジがより好みに近い形状にできたので満足である。
1941年 (昭和16年) の「龍田」の写真は、この半年、穴が開くほど眺めていた筈だが、やはり一人だけでは思い至らない解釈もあるものだと痛感。


参考ウェブサイト

参考書籍

  • 畑中 省吾「軽巡洋艦『天龍』」『スカイウェーブジャーナルNo.6 特集「第1次ソロモン海戦」』ピットロード、2002年、54-57頁
  • 『写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年

    • 石橋 孝夫・戸高 一成「軽巡洋艦『龍田』写真説明」24頁 ^2
    • 石橋 孝夫・戸高 一成「軽巡洋艦『天龍』写真説明」13頁 ^3

全て敬称略。

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