新キットの「1942年時仕様」を精査する – 続・1/700で天龍型軽巡をつくる: 3

ハセガワの新版「天龍型」は、開戦時と1942年 (昭和17年) 時の2種類の仕様を選べるようになっている。
開戦時仕様についてはよくまとまっていると感じるものの、42年仕様については考証面でやや気になる点がある。

そこで、今回はスクラッチ編では触れなかった戦時中の「天龍型」の改正について考えてみたいと思う。


「天龍型」は艦形の小ささ故に、他の巡洋艦ほど戦時中の改正箇所は多くない。
「天龍」「龍田」とも、外見上の大きな変化は専ら1942年 (昭和17年) 5~6月の入渠 (以下、「42年工事」) によるものだ。
その後、「天龍」は同年中に恐らくその状態のまま戦没し、「龍田」は1944年 (昭和19年) まで生き残っていたにもかかわらず、外観上の変化は下段舷窓の閉塞のみで、13号電探すら装備していなかったようだ。

新キットで開戦時と42年仕様での相違点として設定されているのは、以下の6箇所だ。

ハセガワのキットで再現された「天龍型」の戦時改修点 キットは「田村考証」を比較的忠実に再現している。

  • 1. 前檣の短縮
  • 2. 第1煙突前の13mm単装機銃を25mm連装へ換装 (以下、「前部機銃台」)
  • 3. 前部探照燈の移設
  • 4. 第3煙突直後への25mm機銃2基の増設 (以下、「後部機銃台」)
  • 5. 後部機銃台新設に伴う短艇収納位置の前進と通船の撤去
  • 6. 後部探照燈の換装

42年工事について現状最も有力な考察は、学研の「歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2」における田村俊夫氏による記事 (以下、「田村考証」) だろう。
「田村考証」では各種公式記録と当事者証言を元に綿密な検証がなされており、恐らくキットもこの考証と図版を下敷きに42年時仕様を設計したと思われる。

キットの設定の内、2~4と6の、探照燈と機銃関連の換装や増設については異論はない。
形状や位置に若干の疑問があるが、これは後述。
一方、残る1と5、前檣短縮と短艇の移動・撤去については、それ自体行われなかったのではないかと私は考える。まずはこの2点について情報を整理してみよう。

前檣は短縮されたのか?

「田村考証」では前檣の短縮については工事記録も写真もないものの、同時期に各軽巡向けに訓令が出ていることから、「天龍型」も短縮が行われたと推定されている。[1]
また、1941年 (昭和16年) 末~1942年 (昭和17年) 初頭の「多摩」や「木曾」の入渠写真など、5,500t級にて当該工事の実施が確認されていることから、この考察自体に破綻はない。

「多摩」前檣の変化: 1941年 (昭和16年) 12月~翌1月
両者の写真から、12月の入渠で前檣が短縮されたのが判る。[2] 同時期に「木曾」もほぼ同様の改正を施されている。

だが、同年10月の戦隊日誌に掲載の「天龍」の被害状況図では、前檣トップの横桁は2本描かれている。[3]

「天龍」の爆撃被害略図: 1942年(昭和17年)10月 三脚頂部のクロスツリーには横桁が描かれておらず、作図上の省略と撤去、いずれの可能性もある。

上記「多摩」をはじめ、1939年 (昭和14年) 頃から開戦初頭に前檣短縮工事を行った5,500t級諸艦では、いずれもトップ檣下段の横桁のみを残し、トップ檣上段と3脚頂部のクロスツリーの横桁は撤去している。
短縮時に全ての横桁を温存した例は確認できず、また、そうするメリットもないため、工事記録通り、前檣短縮工事そのものが無かったと私は推定する。

「龍田」の前檣: 1941年(昭和16年) 見え辛いが、トップ檣の横桁2本の間に斜桁も確認できる。恐らく42年工事後もこの状態。

後部機銃台新設に伴う短艇の移動は無かった?

短艇の移動について「田村考証」では、1942年 (昭和17年) 撮影の「天龍」の上空写真から短艇位置が前方に移動されたと指摘がある。[4]

だが、当該写真に写る両舷カッターと煙突の位置関係をみると、竣工時と変わっていないのではなかろうか?
竣工当時のほぼ正横の写真と件の上空写真を比べたものが以下。

「天龍」のカッター位置比較
上空写真では左舷カッターが右舷のそれよりやや後ろだが、これも竣工時からの配置。

御覧の通り、ほぼ誤差程度の差で、移動はなかったと考える。
ただ、前列の通船用ダビットは1942年 (昭和17年) のソロモン夜戦時の「天龍」の写真からは撤去されているように思われ、それを裏付けるように同年の別の「天龍」の写真では、甲板に直置きされている通船が確認できる。

「田村考証」には、乗員証言により42年工事にて通船を陸揚げしたとある[5] が、前掲の写真からすると、ダビットを撤去して常備ではなくなったものの、必要に応じて都度通船を積んでいたのではないかと思う。

「天龍」の通船 通船用ダビットが残されていたなら、右写真のカッター前方に影が写るのでは?

では、短艇位置の移動がなかったとして、後部機銃台と干渉しないのか?
キットの機銃台位置では確かに干渉してしまうのだが、機銃台を後ろ寄りにずらし、缶室ケーシング後端の通風筒天蓋の上あたり、後部発射管にやや被るようにすると全く問題ないのだ。

「天龍型」後部機銃台と短艇移設についての仮説
百聞は一見に如かず。ここまで後ろにずらしても、実用上の問題は無い筈。

前部機銃台も同様に通風筒天蓋上、やや前部発射管に被る位置であり、また、この設置位置だと3番煙突直後にあった構造物を撤去する必要がないうえ、煙突から離れることで射界も広がるので、この位置の方が自然なように思う。

次に、細部に疑問が残る前部機銃台の機銃換装と探照燈移設について。

前部機銃台は拡張された?

キットでは、13mm単装時代と25mm連装換装後で同じ機銃台パーツを使用しており、戦前の写真を見ると単装用としては妥当な大きさに思える。
だが、機銃据付要領[6] によると25mm連装の操作半径は1,770mmであり、1/700では直径約5mmキットの銃座は約4mm径で機銃を載せるとやや窮屈に感じられる。

重量差を考えれば当然上甲板から伸びる支筒の強化があった筈だし、揚弾設備への改正も考えられるので、そこで敢えて機銃台のみを手つかずで狭いままにしておいたとは考えにくい。
よって、今回はキットパーツを使用せず、概ね直径5mm前後となるように新造して置き換えた。

「天龍型」前部機銃台平面形についての仮説
写真から判るバランスではあまり外舷側に張り出していない。よって、出来るだけ内側に軸を取り、外側は駆逐艦に見られる切り落とし処理とした。

前部探照燈台は、煙突より幅広

探照燈の移設そのものには異論はないが、前部探照燈台の形状には疑問がある。

「天龍」の前部探照燈: 1942年(昭和17年)
暗くて判りづらいが、探照燈台側面が煙突側面よりも横に張り出している。

これは前掲のソロモン夜戦時の「天龍」だが、よく見ると探照燈台は煙突より幅広なのが判る。[7]
恐らく照射界を広く取るためで、レールによる左右移動が可能な小判型平面の探照燈台と思われる。この形状の探照燈台自体は珍しくなく、二等駆逐艦「芙蓉」の一般艤装図[8] にも、同様の台とレールが描かれている。
キットでは後部探照燈台同様の円形としているため、横幅は当然煙突より狭く、また、太い円柱で支える構造も重量的に疑問がある。

「天龍型」前部探照燈台についての仮説
角度的に見えないが、床面には移動軌条を設けた。

今回は、キットからは探照燈本体のみを使用して台はプラ材で自作、支柱部分は重量面を鑑みて回天母艦時代の「北上」の探照燈台等に見られるトラス構造[9] としてみた。

防雷具置場は何処にありや?

元々、42年工事以前の1・2番煙突間の吸気筒天蓋は、防雷具置き場だった。キットでは42年工事で新設された探照燈台を防雷具の間にそのまま割り込ませると云う、やや無理のある設定をしている。

「天龍」の防雷具揚収デリック: 1931年(昭和6年)
「天龍」は写真の様にデリックが防雷具の前にあり、「龍田」では後ろにあるのが識別点となる。[10]

確かに、キットの設定でも防雷具自体は置けるが、キットで省略されている防雷具揚収用デリックが探照燈台に干渉して使えなくなってしまうので、現実的ではない。
また、先の写真に従い探照燈台の横幅を広げると、当然、防雷具そのもののスペースもなくなってしまう。

この防雷具の移設先は工事記録も写真もなく完全な推測なのだが、恐らく2・3番煙突間の吸気筒天蓋上ではないかと思う。
戦前の写真を見ると、同位置には何らかの物品が置かれているが、物が小さく判別不能である。

ここに1・2番煙突間にあった防雷具を持ってきて、あぶれた元の何かの置き場所を設ける方が、より大きな防雷具の置き場所を新設するよりも合理的ではなかろうか。

「天龍型」前部探照燈台についての仮説
防雷具用デリックはキットでは再現されておらず、開戦時仕様でも自作が必要。

また、積み降ろし用のデリックも同形状の吸気筒間で移設するだけなので、寸法や運用方法を変える必要がないのも利点だ。


ここまで列挙した内容をまとめると以下の通り。

ハセガワ「天龍型」で再現された戦時改修点に対する仮説
後部探照燈以外は、一通りツッコむ形になってしまった……。

  • 1. 前檣の短縮は無し
  • 2. 前部機銃台はキットよりひと回り大きく
  • 3. 前部探照燈台は煙突より幅広な長円形、横にあった防雷具は2・3番煙突間へ
  • 4. 後部機銃台は吸気筒天蓋に被る形でもっと後ろに
  • 5. 短艇収納位置はそのまま、通船用ダビットのみ撤去

以上、キットの42年仕様について一通り見解を述べてみたが、42年工事以降の「天龍型」は鮮明な写真が皆無で、キット通りの解釈が正解の可能性も当然ありうる
ただ資料やキットを鵜呑みにするのではなく、こうして解釈の可能性で遊ぶのもスケールモデルの醍醐味のひとつではないだろうか。


さて、縁あって本日発売のホビージャパン誌に今回製作した「天龍」「龍田」を掲載していただくこととなった。
基本的にはここで書いている事のダイジェスト的な内容なので、普段燕雀洞をお読みいただいている諸兄には物足りないかもしれないが、プロの撮影技術で普段はボンヤリしている細部までしっかり写っており、また、少し「よそゆき」でマイルドな文体で執筆していたりするので、興味を持たれた方は手に取っていただけると幸いである。
追記: 普段、ちょくちょく作業しに行っている東京・秋葉原の貸工作スペース「秋葉原工作室」 (@akihabarakousak) さんに暫く展示していただくことになったので、近くにお立ち寄りの際はご覧いただけると幸い。


参考書籍

  • 田村 俊夫「日本海軍最初の軽巡『天龍』『龍田』の知られざる兵装変遷」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、95頁^1、96頁^4 ^5、101頁^7
  • 福井 静夫『写真 日本海軍全艦艇史』KKベストセラーズ、1994年、278頁^2、266頁^10
  • 森 恒英『日本の巡洋艦』グランプリ出版、1995年、220頁^6
  • 「芙蓉 (若竹型) 昭和9年」『海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1992年、124-125頁 ^8
  • 日本造船学会「二等巡洋艦 球磨型 北上 (昭和20年回転搭載改造) 一般艤装図」『明治百年史叢書242 昭和造船史別冊 日本海軍艦艇図面集』原書房、1975年、47頁 ^9

参考ウェブサイト

全て敬称略。

「新キットの「1942年時仕様」を精査する – 続・1/700で天龍型軽巡をつくる: 3」への6件のフィードバック

  1. こんにちは由良之助と申します。以前ヴァンガード工場の掲示板で何度かお世話になった者です。
    このブログも毎度非常に興味深く拝見しております。
    此のたび「天龍」「龍田」がホビージャパン誌に掲載され、メジャー誌デビューということでおめでとうございます。
    ハセガワのリニューアル情報が出た際にHJ誌にコメントを寄せられていたのは存じ上げておりましたが、いよいよ実作品で登場ということで楽しみにしておりました。
    大きな写真で見てしまいますと今度は実物を拝見したくなるもので、秋葉原に足を伸ばしてみようかと思っております(フルスクラッチ版にもおおいに拝見したいものですが・・)。

    メールアドレスの記入が必須ということなのですが、私はパソコン・携帯電話ともに所有しておりませんのでこれはフリーメールアドレスとなります。とにかく祝意をお伝えしたかったので、このようなかたちとなりました。

    1. 由良之助様
      いつも龍門さんの掲示板では興味深い考察を楽しませていただいております。
      祝辞ありがとうございます!
      見慣れたベテラン勢の名前の中に自分の名が混じっているのは、何か夢でも見ている様な不思議な気分です。
      生で視ると諸々粗も見えるかと思いますが (笑)、機会がございましたら是非ご覧くださいませ。

      追伸 メールアドレスはスパム対策で入れていたのですが、最近落ち着いてきたので必須項目から外しました。
      次回からは省略でも大丈夫なはずです。

  2. こんにちは由良之助です。先日のコメントへのお返事を頂きありがとうございます。

    早速ですが「是非に」とご招待がありましたので(これは私の妄想)、「天龍」「龍田」を拝見にうかがいました。
    秋葉原工作室で作業中の方もいらっしゃるのでガラスケースにへばりつくようなことはせず、5分ほど眺めての感想です。
    私はド近眼で、どちらが「天龍」「龍田」かもわかりませんので全体を見渡したのみですが、ただ一言「存在感のある作品です」と書くだけでは終わってしまいますので、いろいろ理屈をコネてみます。

    まず1/700の空気感というものが感じられます。色彩にこだわりを持たれておられることはこの模型ブログでも明らかですが、白色迷彩でも違和感なく馴染んでいます。
    艦船の場合は縮尺の小ささのため塗り絵的になるか、汚しが効きすぎて汚い感じになりがちなのですが、何れの方法にも依らずに1/700で自然に感じさせるのは並大抵のことではありません(空気遠近法的、ということでしょうか?)。
    手すりやアンテナ線は無くとも、艤装の作りこみに気を払われているので「無い」ものも「ある」ように感じさせることができていると思います。ちょっとわかりにくい表現でしたが、1/1の実物で「ある」ということを知っていれば模型の上では「無」くてもそこに「ある」と思わせることができる造りになっているということです(却ってわかりにくい?・・)。
    だだ、実物の知識を持たないまま見ると、単に「手すりとアンテナ線が付いていない」と思われてしまうかもしれませんが・・・。
    いずれにせよ、色彩やディティールの密度から全体の「見え方」というものを綿密に構成された作品であると感じます。これが本当の精密作品である、と言えます。
    しかし模型誌に載る接写写真では本当の良さは分かりにくいでしょう(自然光のもとで見るともっと良いのかもしれません)。

    アキバまで足を延ばした甲斐はありました。『しまった。「嵯峨」も見に行っておけばよかった』とも思いましたが・・・。

    1. 由良之助様
      過分のお褒めに与り、恐縮の限りです。仰る通り、「スケールなりの自然な見え」は常に意識しながら塗っています。
      その辺り、感じ取って頂けて嬉しいです。
      やはり今日的には手すりが標準工作化していますので、それを省いたときにスカスカに見えがちではあるのですよね。
      そこをカバーするために、逆に手摺より太いもの、1/700で写真をプリントした時に形が確認できるものは総て再現してやる意気込みで挑みました。
      最たるものは、艦橋の「人」ですね、HJ誌では字数の都合で触れていませんが。
      そのあたりの本誌では語りきれなかった部分はおいおいこの連載で開示して行きたいと思っていますので、お付き合いいただければ幸いです。

  3. こんにちは、中国人です、前から作品をみました、え?手すりとアンテナが無い?何でつけて無い、今は貴方が作る700スケールの船は最高だと思います、その理念のファンです、でも考証は難しいなぁ、まだ模型雑誌に載るおめでとうございます~

    1. Abc123さま
      はじめまして、コメントありがとうございます。日本語お上手ですな。
      手すりとアンテナ線ですが、私は不器用で納得できる細さでうまくできない、と云うのが第一にあります。
      そして、不器用な人間が妥協して太い手すりやアンテナ線を付けると、せっかくの美しい船体のシルエットがぼやけてしまうのが嫌なのです。
      考証は、幽霊の尻尾をつかむような作業で、追いかけ始めると果てしないのですが、資料に埋もれていると、ある時ふっと目の前にハッキリ像を結ぶことがあり、それが楽しくて中々やめられないですね。
      今後ともよろしくお願いします。またコメントお待ちしてます。

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