副錨はニューファンドランドに消えた – 1/700でKGV級戦艦プリンス・オブ・ウェールズをつくる: 7

「プリンス・オブ・ウェールズ」(以下、「PoW」) の副錨について、以前ツィッタァにて、キットの副錨が撤去状態なのは同型艦の写真からの誤認ではないか、と書いた。
しかし、そうではなかったのだ。写真からは撤去のタイミングが数日単位で絞り込めるのだが、状況としては不可解なものであった。


まず、時系列に沿って写真を確認してみよう。

「プリンス・オブ・ウェールズ」1941年4月
「プリンス・オブ・ウェールズ」1941年6月今回の設定年次に近い4月と6月、いずれも副錨の錨鎖がある。

「プリンス・オブ・ウェールズ」1941年8月9日副錨錨鎖の確認できる最後の日。

8月9日の写真では人物に紛れて判り辛いが、錨鎖庫入り口の覆いが、そして数日後の写真では錨鎖庫入り口の蓋が確認できる。いずれも大西洋憲章の為の会談と云う、歴史的重大事に伴う航海における連続写真の一葉であり、状況的に撮影データの日付は信用に足ると思える。

「プリンス・オブ・ウェールズ」1941年8月15-16日そこから数日後、錨鎖は無く、錨鎖庫の入り口には蓋がされている。

「プリンス・オブ・ウェールズ」1941年夏以降IWMに撮影データの記載が無いが、舷側に迷彩があるので夏以降の姿である。

さて、ここで疑問が湧く。件の大西洋会談はカナダ沖、ニューファンドランドである。そして「NAVAL-HISTORY.NET」掲載の行動記録によればニューファンドランドでの停泊期間は9日から13日。すなわち、ニューファンドランド到着時にあった副錨錨鎖庫が、出航2日後には消えていたことになる。
当然ながらその間に入渠した記録もないし、この間、チャーチルとルーズベルトがお互いの艦を何度か行き来しているので大きな工事は不可能である。

「プリンス・オブ・ウェールズ」1941年8月15-16日これも撮影データが無いが、状況的に前掲の集合写真と同日であろう。

IWMに、先ほどの集合写真に似た写真がもう一枚ある。撮影データこそないものの前掲の集合写真と同時期の撮影と思しきもので、こちらには塞がれた錨鎖庫がより鮮明に写っている。
よく見れば、錨鎖庫の蓋には取っ手とハンドル式の螺子があり、永続的な閉鎖ではないように思える。曲面の感じからおそらく鋳造で、艦内で即席に作られたものではないのも判る。すなわち、英本国を発つ前からこの蓋は存在し、少なくとも8月9日まで収納されていたと考えられる。

これらのことから、副錨錨鎖庫は元々不使用時に任意で開閉できる仕様と思われる。同型艦では、大戦末の「アンソン」や「ハウ」に副錨の写った写真があり、日本海軍と違って完全に廃止はしていない模様。

「アンソン」1945年3月姉妹艦の「ハウ」にも同様に、大戦末に副錨が確認できる写真がある。

翻ってキットの使用では、舷側に副錨がある一方、甲板上に錨鎖はなく錨鎖庫が閉鎖されているという、ちぐはぐな仕様である。
幸い、豪華版には副錨用の錨鎖のエッチングパーツが用意されているので錨鎖庫上のパイプ状カバーのみ自作すれば簡単に使用状態に出来る。一方、閉塞状態とするなら、舷側に副錨を取り付けないだけで良く、更に簡単である。迷彩状態として作る場合、ほぼ閉塞状態の写真ばかりだが、上述の通り簡単に開閉できるようなので好みで選んで良いだろう。

「プリンス・オブ・ウェールズ」錨鎖庫入り口の修正結局、キットは完全な考証ミスではなかったが、錨鎖と錨の関係は整合を取っておきたい。


例によって、思考の回り道が多いのだが、今回は日本海軍の戦艦における副錨廃止の先入観が強く、それに引きずられて迷走してしまったように思う。結果として、作例の解釈で問題なかったが、先入観を持たずつぶさに写真を眺めることの大切さを痛感させられた。


写真引用元

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