機雷・爆雷・掃海具、三者三様の艦尾兵装 – 1/700で樅型駆逐艦をつくる: 14

調べれば調べるほどドツボにはまる駆逐艦の艦尾兵装、しかも、小型艦ゆえ、既存アフターパーツのオーバースケールにも悩まされる。だが、結果的に3隻3様で、各々見栄えのする作り別けになったので良しとするか?

機雷・爆雷・掃海具、三者三様の艦尾兵装先日、カミサンが同僚の結婚式に呼ばれた際、来場客の使う一眼型カメラに興味を惹かれたらしく、俄かに一眼ブームが到来。
かねてより、コンデジのディテール描写に限界を感じていた私と利害が一致し、十数年ぶりに一眼型カメラが我が家にやってきた。

今回から、途中写真が新カメラによるものだ。まあ、製作技術そのものは従来どおりなので、却って粗が目立つかも知れんのだが……。


艦尾兵装について

今回の3隻は、同部隊所属艦にしては珍しく、艦尾の兵装が全て異なっている。
模型として並べた場合、中々見栄えがして良い。

1941年 (昭和16年) 前後の各艦の艦尾兵装の構成は、以下のように推測した。

  • 「栗」: 機雷敷設軌条×2、片舷型爆雷投射機×2、
  • 「栂」: 機雷敷設軌条×2、片舷型爆雷投射機×2、大掃海具三型 (防雷具、所謂パラベーンと捲揚機などで構成される単艦式掃海具) ×2
  • 「蓮」: 機雷敷設軌条 () ×2

その他、任務を鑑みると、「若竹型」「芙蓉」の図面同様、「樅型」「蔦型」にも爆雷投下台が両舷一対くらいは装備されていたと思われるが、決定的な資料や写真は見つけられず。

ハセガワ製の1/700駆逐艦「樅」をベースにした、「栂」「栗」「蓮」の艦尾兵装の違い
建造時期の一番若い「蓮」が最も軽装なのが興味深い。

「蓮」の艦尾兵装

「蓮」は今回の3艦の中ではもっとも簡素で、新造時のまま機雷敷設軌条が2条装備されているのみである。 後述の2隻と違い、1941年 (昭和16年) 頃までは短縮されといないと思う。
1938年 (昭和13年) の写真[1] では上記の状態で、その後、終戦時の写真では両舷型爆雷投射機や機銃などが増備されている[1] のが確認できる。
「若竹型」と同一とすれば、軌条の長さは1/700換算で17.5mmである。

機銃は大戦中期以降の装備で間違いないと思われるが、爆雷投射機は1940年 (昭和15年) ~41年 (同16年) 頃、出師準備で舷外電路を装備した際に一緒に装備した可能性もあると思う。
1940年 (昭和15年) に同型艦の多くが哨戒艇に改装された際、哨戒艇組が両舷投射機を装備している[3] ので、時期的には問題ないはず。

だが今回は、両舷投射機は戦時中の装備として、取り付けなかった。
この時期の二等駆逐艦に新型投射機というのが、オーバースペックな印象があって、なんか艦のイメージと違うんだよな、というキャラクターモデル的発想によるもので、特に根拠なし。

「栗」「栂」の艦尾兵装

写真では大抵キャンバスが掛かっているが、「栗」「栂」の両艦には、片舷型の八一式爆雷投射機が左右一対の計2基装備されている。
これは公文書にも記録があり、「官房機密第4735号 7. 11. 30. 第26駆逐隊 (柿、楡、栗、栂) に掃海具及爆雷投射機装備の件[4] 」の記述で、昭和8年2月完成予定として26駆逐隊 (以降、駆逐隊をdgと略記) の4隻「柿」「楡」「栗」「栂」に対して爆雷投射機2基と大掃海具二号または四号※1を装備したようである。
掃海具の搭載数は、文字が潰れてしまっており、判読できなかった。

※1: 大掃海具二号・四号とは対艦式掃海具と呼ばれ、掃海具ではメジャーな防雷具 (パラベーン) を用いた単艦方式ではなく、2艦1組となって小型の浮標 (ブイ) を連ねて掃海する形式のものである。
水雷艇や掃海艇の写真で、よく舷側にずらりと並んでいる白い瓜のようなものが浮標。

さて、話題を爆雷投射機に戻す。
八一式投射機は。そのものズバリがパーツ化されているピットロード (以下、「PT」) の「新 WWII日本海軍艦船装備セット [4]」 (以下、「新装備品セット4」) のものを使用。

装填台は、PTの新旧装備品セットや、ファインモールド (以下、「FM」) のエッチングパーツなどでパーツ化されているが、いずれも両舷用の三型のみでそのままは使えない。

モールドや形状が良いFMの物は残念ながら大きすぎ、今回の場合、艦形が小さく設置スペース内に収まらないため、あえなく没。
そこで、プラパーツなので格子は抜けていないものの、外形と大きさが良好なPTの「新装備品セット4」の両舷用を半分に切断し、断面部分にエッチングメッシュを貼ってそれらしくした。
また、睦月型公式図に描かれている片舷投射機の装填台には、投射機へスムーズに爆雷を送るための樋のようなものが描かれているので、半割りにした0.88mm径プラ棒の断面に溝を刻んで再現した。

ハセガワ製の1/700駆逐艦「樅」をベースした、「栗」の艦尾兵装詳細 普段はアラが目立つので、原寸以上に見える写真は載せないのだが、さすがにこの辺は拡大しないと意味が分からない。

爆雷投射機の設置場所は3番砲座直後の舷側だが、「栗」「栂」とも写真の角度のために前後位置がはっきり特定できない。
そこで、毎度参考にしている1922年 (大正11年) の艦名不明の上空写真[5] の同位置に写っている物がそれと推定して、位置を決めた。

また、同写真より、爆雷投射機を装備した艦は、機雷敷設軌条が短縮されていることがわかる。
ややブレているので正確なところはわからないが、「芙蓉」の図面にも描かれている、後甲板中程の昇降口の横あたりまでで途切れているようだ。
写真からスケール換算すると、軌条の長さは1/700で推定13mm

尚、爆雷投射機に付随する構造物なのかは不明だが、両艦とも3番砲座直下の甲板室右舷に物入れのような構造物が写真から確認できるので、プラ板で再現してみた。

「栂」の艦尾兵装

「栂」1938年 (昭和13年)斜め後方からの写真[6] ※2 で、艦尾末端近くに防雷具が2基、爆雷投射機直後の中心線あたりに捲揚機 (ウインチ) らしきものが1基、確認できる。
また、捲揚機についてははっきり確認できないものの、1934年 (昭和9年) と1935年 (昭和10年) の写真[1] にも防雷具が写っている。

1938年 (昭和13年) の「栂」の後甲板付近の写真から、艦尾兵装を読み取る※2 これに限らず、爆雷関係や掃海関係の装備にはキャンバスが掛かっていることが多く、どうしても推定が多くなる……

「睦月型」「三日月」の図面[8] などをみると、同時期一等駆逐艦の「掃海型」の艦尾は機雷敷設軌条を撤去または、当初から装備していなかったようだ。
だが、前述の斜め後方の写真では、軌条そのものは明瞭ではないものの、艦尾末端の軌条両脇に張り出している操作フラットが残されているため、「栂」には軌条はそのまま残っているのではないかと推測した。

防雷具 (パラベーン) 部分は、工作の邪魔になるので、この段階では取り付けない。
捲揚機 (ウインチ) は、前述のとおり、中心線上の1基装備で、昭和期に入って装備されている点と併せ、電動式捲揚機と判断し、ナノドレッドの同部品を使用した。

「樅型」に「掃海型」艦尾兵装の艦はあったのか

これら艦尾装備に言及した書籍として、本稿執筆時点で最新と思われるのが、岩重多四郎氏の「日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編」ではないかと思う。
同書では「栂」も含めた「樅型」は全て大掃海具装備の「掃海型」ではなく、機雷敷設軌条のみを持つ「敷設型」の分類となっている。

しかし、先に述べた「栂」以外にも、「榧」「梨」「竹」については、防雷具が写った写真が有る。
また、「桜と錨」氏の「海軍砲術学校」に掲載されている「極秘『帝国海軍水雷術史』-駆逐艦機雷掃海爆雷兵装」の第7編-第4章-第3節-第2項「掃海兵装艤装」[9] にも、1922年 (大正11年) に25dgへ大掃海具三型 (当時呼称: 三号掃海具) 装備の旨の記載があり、これら3隻に「樅」を加えた25dg組は「掃海型」とみて良さそうだ。

25dg以外では、「栂」と同じ26dg所属「柿」の1930年 (昭和5年) の写真にも防雷具らしきものが写っている。
両艦とも、1920年 (大正9年) ~21年 (同10年) を最後に暫く写真が無く、次の時期の写真が前述のものになるため、大掃海具の装備時期は1920年代のどこか、という曖昧な推定しかできない。
ただし、同じく26dg所属の「栗」の1938年 (昭和13年) の写真[10] には防雷具や捲揚機が写っていない。
防雷具は取り外し・収容ができても、捲揚機を簡単に外したり収納することはできないので、「栂」と「柿」は「掃海型」だが「栗」は「敷設型」と思われる。
残る「楡」は竣工直後の写真しか手元になく、全く不明である。
よって、26dg組についてはは小隊または個艦単位の装備かと思われるが、裏付けとなる資料はなく、確信が持てない。

さて、これらについて、ダメ元で岩重氏のサイトの掲示板から問い合わせてみたのだが、どうやら「樅型」各艦については、執筆時点で「掃海型」と断定できる写真が手元に無かったため「敷設型」としたとのことで、一部「掃海型」が存在したとの解釈でも一応大丈夫な模様。

各艦共通の装備までまとめようと思ったのだが、思いのほか字数が増えてしまったため、この辺りは次回の記事にて。


さて、冒頭のカメラの話、以前持っていたカメラは前世紀末 (なんかすごい表現だ) に購入したもので、当時はまだフィルムカメラ全盛期だったので、「一眼レフ」カメラだった。
今は、光学ファインダーではないので、内部の「レフ」が無く、「ミラーレス一眼」とか「デジタル一眼」と呼ぶそうな。
当時は、現像するまでは仕上がりが判らず、ブレやピンボケを考慮して同じカットを複数撮るために、貧乏学生にはカメラを入手してからも中々過酷な出費だったのを思い出す。
しかも、撮影技術も「ググって調べる」なんて事は出来なかったので、色々失敗が多かった。

今や世間の景気はバブル崩壊と騒がれていた当時より更に悪化し、老後は寿命の前に餓死を心配せねばならんような時勢ではあるが、技術面での不便や、手間、時間なんてのは確実に改善されているのだなと思う。
仮に今、景気の良かったバブルの頃にタイムマシンで送ってやろうか、と云われても、一緒にインターネットやデジタル機材の無い不便も甘受せねばならぬと思うと、うーん、微妙かなと思ってしまう。

そういえば、「一眼レフ」時代に作っていた艦船模型が今も手元に残っているが、当時はピットロードの装備品セットも旧シリーズのIVかVあたりまで、エバーグリーンのプラ棒も入手難の上に一番細い番手で0.64mm径だったりして、ひたすら伸ばしランナーで何でも作っていたような。

20年前位に作った「時雨」と10年前位に作った「野分」、そして現在作りかけの「栂」折角なので、昔の作風との比較。
奥は20年前位に作ったタミヤ「白露」ベースの「時雨」。ピットロードの装備品セットでアップデートを試みている反面、マストやスキッドビームが素組と大差ないほどゴツかったり、色々無頓着。でも2週間くらいで完成。
真ん中は10年前位に作ったピットロード「陽炎」ベースの「野分」。マストの細さや煙突の抜け、舷外電路などは今日的にこなれてきているが、現在作りかけの「栂」に比べると兵装や装備品のバランス感などは結構雑。

今回の工作などは、今世紀に入って充実した各社アフターパーツや、エバーグリーン、プラストラクトなどの高精度の樹脂素材あってこそのもので、私の工作技術では、どんなに時間を掛けても当時の環境では同じものは作れなかっただろう。
当時は当時で、それなりに満足していたようにも思うが、一度、精度や解像度を上げた模型を作ってしまうと、もう以前のレベルには戻れないよなあと思う。
ただ、今度は老化で眼の方が衰えて、全盛期とは別次元で難渋する訳であるが。

あと、余談と昔語りが矢鱈と多いのは、これまた老いの弊害か。


参考書籍

  • 田村 俊夫「艦艇秘録写真選 PART-2 駆逐艦『蓮』、『栗』&『第23号駆潜艇』」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ57 帝国海軍 艦載兵装の変遷』学習研究社、2007年、43頁 ^1 ^10
  • 田村 俊夫「艦艇秘録写真選」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ45 帝国海軍 真実の艦艇史』学習研究社、2004年、43頁 ^2
  • 福井 静夫『写真 日本海軍全艦艇史』KKベストセラーズ、1994年、847頁 ^3、542頁 ^5
  • 雑誌「丸」編集部 『丸 季刊 Graphic Quarterly 写真集 日本の駆逐艦 ()』潮書房、1974年、157頁 ^6、156-157頁 ^7
  • 「公式図面:『三日月』船内側面」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ64 睦月型駆逐艦』学習研究社、2008年、91頁 ^8

参考ウェブサイト

全て敬称略。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です