駆逐艦「藤」元乗組員の所蔵写真から、模型的ディテールを読み解く: 後篇

駆逐艦「藤」元乗組員のお孫さんに送っていただいた、昭和初期の駆逐艦「藤」の写真を、モデラー視点で解説+α。前後篇の後篇。

駆逐艦「藤」元乗組員の所蔵写真から、模型的ディテールを読み解く: 後篇公開順が前後してしまったが、先日の駆逐艦「藤」の写真紹介の後編。

今回は、「おいしいものは最後にとって置く」という古人の格言 (?) に従って、模型向きのクローズアップ多め。


紹介の経緯や方法については、前回の記事にて触れたので、そちらを参照していただきたく候。

推定1930年 (昭和5年) 頃の、駆逐艦「藤」の右舷全景 (原版) 推定1930年 (昭和5年) 頃の、駆逐艦「藤」の右舷全景 (補正後) 推定1930年 (昭和5年) 頃の駆逐艦「藤」の右舷全景
(上が原版、下が階調補正したもので、いずれもクリックすると元のサイズで表示。以下、全て同じ仕様。)

後半最初の写真は、右舷前方から見た藤。
この写真のポイントは、主砲の防水布で、「樅型」「蔦型」「若竹型」とも、防盾全体を布で覆っている写真は結構見かけるが、このように昭和期の建造艦のような基部だけの防水布を装備している写真が意外に少ない
しかも、1番砲のみの装備というのはこれまた珍しいと思う。
後年、水雷戦隊を外れて「第三十六号哨戒艇」となった1940年 (昭和15年) の同艦の写真[1] では再び防水布は無くなっている
日夜激しい訓練で波しぶきを被る、水雷戦隊所属時のみの臨時装備だったのかもしれない。

推定1929年 (昭和4年) ~1932年 (昭和7年) 頃の、駆逐艦「藤」の艦首 (原版) 推定1929年 (昭和4年) ~1932年 (昭和7年) 頃の、駆逐艦「藤」の艦首 (補正後) 推定1929年 (昭和4年) ~1932年 (昭和7年) 頃の、駆逐艦「藤」の艦首。

2枚目は艦首旗竿付近の写真。ちなみに、撮影年次については、その後末廣さんより御祖父君の経歴書を送っていただき、年次不明の写真もある程度推定できるようになった。
経歴書によると、1929年 (昭和4年) 11月に「藤」に着任し、1932年 (昭和7年) 5月に駆逐艦「深雪」 (沈没のわずか2年前! 少しでも人事のタイミングが違ったら、今頃末廣さんは……) に転属されている。
従って、煙突の識別帯がない写真も、概ねその2年半の間に撮影されたものとみてよいと思う。
もちろん、「着任前に撮影された写真を同僚から貰った」とか、「転属後に後輩から送られてきた」という可能性もあるが、記念撮影以外の写真では考え辛いし、際限がないので、そのあたりの可能性は除外して考えるとする。

昭和期の駆逐艦と異なり、旗竿の支柱部分が甲板面からではなく、フェアリーダーの上から生えている
一等駆逐艦の「峯風」系列も同じだが、側面からの写真だと、一見甲板面から生えているように見えるので見落としがちな点ではないだろうか。

推定1930年 (昭和5年) 頃の、駆逐艦「藤」の煙突左舷 (原版) 推定1930年 (昭和5年) 頃の、駆逐艦「藤」の煙突左舷 (補正後) 推定1930年 (昭和5年) 頃の、駆逐艦「藤」の煙突左舷。

一見、判り辛いが、左舷前方より、1番煙突~2番砲~2番煙突と望む構図の写真。
模型資料的な見どころが多く、1番煙突左舷の対艦式掃海具の浮標の装備方法や、昭和期建造艦とは異なる辷り止めパターンの2番砲座、通船用のダビッドにカッターを吊っているなど、様々なディテールが良くわかる。
また、奥に写っている2番発射管の予備魚雷格納筐の天面がカマボコ状に弧を描いているのは、同型他艦には見られない珍しい特徴だと思う。

推定1929年 (昭和4年) ~1932年 (昭和7年) 頃の、駆逐艦「藤」の2番煙突・烹炊所後方 (原版) 推定1929年 (昭和4年) ~1932年 (昭和7年) 頃の、駆逐艦「藤」の2番煙突・烹炊所後方 (補正後) 推定1929年 (昭和4年) ~1932年 (昭和7年) 頃の、駆逐艦「藤」の2番煙突・烹炊所後方。

先の写真とほぼ同じ範囲を、後方からとらえたもの。
接舷中の艦は水上機母艦の「神威」とのこと。 (水上機母艦には詳しくないので裏が取れなかった、申し訳ない)

この写真の見どころは烹炊所後面で、艦外からの撮影では3番砲座や2番魚雷発射管の陰に隠れて見えないことが多く、貴重なカットである。
右側の腰高窓や左側の鎧戸状の構造物など、「蔦型」前期艦では直上に機銃台や探照灯台などの構造物が無いため、明瞭に写っている。
また、この写真でも、左舷後方の通船用ダビッドにはカッターが吊ってあるように見える


前回の補足

前回の基隆に集結した一水戦の撮影日時について、私は左端に写る一駆の駆逐艦から推測を行った。
北方警備の一駆が何故台湾に? というところから、1930年 (昭和5年) の一駆は加賀の直衛だったらしい[2] →加賀は3月に青島方面で行動していた[3] →じゃあその前後の寄航じゃね? という、間接的な根拠によるものであまり自信がなかった。

その後、末廣さんから連絡があり、「アジ歴の海軍公報を1年分印刷して、艦船所在の記載をエクセルにまとめてみた」という、私なら聞くだけでやる気を失くしそうな、気の遠くなる調査結果を教えていただいた。
恥ずかしながら、それまで私は海軍公報に艦船の所在が記載されていることなど全く知らず、早速、自分でもアジ歴所収の海軍公報を閲覧してみた。

そうすると、確かに4月20日前後に一水戦が基隆[4] におり、しかもその時期に一駆の「野風」もいる……が、一駆はその時期一度も基隆には勢揃いしていない。
「野風」だけの日と、「神風」と2隻で寄航している日はあるが、残り2隻は横須賀にいるのである。
惜しい、せっかく日時が確定するかと思ったのに、と、ここでまた末廣さんからメール。
「左端の4隻の駆逐艦、よく見たら後ろの3隻がちょっと違う、これは二十七駆の『葦』『菱』『菫』では?」
あ、確かに二十七駆も当時一水戦所属だし、丁度3隻編成だ!!


推定1930年 (昭和5年) 4月22~23日頃の、台湾、基隆港に停泊する第一水雷戦隊 (原版)


推定1930年 (昭和5年) 4月22~23日頃の、台湾、基隆港に停泊する第一水雷戦隊 (補正後)

推定1930年 (昭和5年) 4月22~23日頃の、台湾、基隆港に停泊する第一水雷戦隊。

おわかりいただけたであろうか? (心霊特集か!)
レンズの歪みも考慮する必要があるが、確かに左端奥の3隻は、羅針艦橋の前後長が短い気がする
そして更に、末廣さんはその中でも、次の写真で十六駆の後甲板に洗濯物があることに注目して、洗濯のある火曜日にあたる22日では? と推測している。
2枚の写真が同日に撮られているとは限らないが、並びなどを見る限り、先の写真と同じ時期の寄航日のいずれかで
あるところまでは堅いだろう。

といった辺りで、最後に洗濯をする十六駆のキャプションを修正して、本稿の筆を置こう。

推定1930年 (昭和5年)  4月22日の、第十六駆逐隊と第十五駆逐隊 (原版)

推定1930年 (昭和5年) 4月22日の、第十六駆逐隊と第十五駆逐隊 (補正後)
推定1930年 (昭和5年) 4月22日の、第十六駆逐隊と第十五駆逐隊。


さて、公開が製作記事と前後してしまった経緯について。
このブログ、原稿の執筆は、大抵、職場の昼休みに私物のPCを持ち込んで少しずつ書き溜めている。
ところが、そのPCは完全オフライン (出不精なので、スマホでテザリングなど夢のまた夢、携帯電話すら通話専用の契約なのだ) なので、調査の裏を取りたい場合などは、そこだけ帰宅して調べることになる。

製作記事なんかだと、出典のページ数なんかを過去の原稿からコピペしてきて、オフラインでも結構書けてしまう (そう、前回の鬼のような参考資料一覧は、流石に執筆の都度、掲載ページを調べている訳では無いのだよ) のだが、今回のような例外的なパターンだと、過去記事から参照元がコピペできないので、どうしても執筆が持ち帰りになって、時間が掛かってしまうのだ。

なぜ、持ち帰ると時間が掛かるのか? それは、家で資料を調べていると、手を動かしたくなってしまい、結局工作を始めてしまうからに他ならない。モデラーの業だよね。
そんな理由で遅くなってしまい、末廣さん申し訳ない、でも、これからも写真送ってください (おい)


参考書籍

  • 福井 静夫『写真 日本海軍全艦艇史』KKベストセラーズ、1994年、542頁 ^1
  • 落合 康夫「空母『加賀』行動年表」『写真 日本の軍艦 第3巻 空母I』光人社、1989年、101頁 ^3

参考ウェブサイト

全て敬称略。

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