「樅型」と「若竹型」の間に「蔦型」があった? – 1/700で樅型駆逐艦をつくる: 2

定番資料の光人社「日本の軍艦」や海人社「日本駆逐艦史」にも記載がない、でも、調べれば調べるほど「蔦型駆逐艦」が存在したとしか思えないのだ。

前回の記事から約半月、早く先に進みたい云々と書いておいて、いまだ資料の山の中である。
ひとたび気になると無視できなくなるのだ。 私の「調べもの欲」は持病に近い。
はたして、製作に掛かれるのはいつの日か。


前回の全長問題を書いた直後、ネット上で資料収集を続けた結果、「桜と錨」氏がウェブサイト「桜と錨の海軍砲術学校」で公開中の、1943年 (昭和18年) 海軍省作成の公式資料「一般計画要領書 二等駆逐艦」というものに行き当った。
史料内に全長についての記述を確認。
やはり、「樅型」「若竹型」とも、垂線間長83.82m/全長88.392mで間違いないようだ。

しかし、同史料の中に、気になる記述がある。
「樅型」と「若竹型」の項の間に、「蔦型」という項があり、「計画番号F37A.B」と記されている。
計画番号で思い当たるのは、前回取り上げた、衣島氏の著作の記述である。
衣島氏の「若竹型」解説によると、「1919年計画の菊以下5隻がF37A、1920年計画の蔦以下8隻がF37Bとなり」とあり、上の「蔦型」は「菊」~「蓼」の13隻か、「蔦」~「蓼」の8隻を指していると思われる

そこで、前述の「一般計画要領書」に戻る。

各型名の右肩に括弧付の数字が記されており、「樅型」と「若竹型」が「(7)」、「蔦型」が「(12)」となっている。 また、1940年 (昭和15年) に除籍された「桃型」が「(3)」と記され、二等駆逐艦として表内にある。

それらを総合して考えると、この数字は、「桃型」が全て除籍され「樅型」~「若竹型」が哨戒艇や練習船に大量転籍する1940年 (昭和15年) 直前の現存数と思われる
建造数と一致しないのは、昭和初期までに失われた「樅」「蕨」「早蕨」を除いた為だろう。

となると、「蔦型」とは「菊」から「蓼」までの13隻ということか。
なぜ1番艦の名をとった「菊型」ではないのか、という点には疑問が残るが…。

「一般計画要領書」での「樅型」と「蔦型」の違いは重油積載量くらいしかないので、外形の違いを写真から追ってみると、「樅型」とも「若竹型」とも異なる特徴を持つ「蔦型」の姿が見えてきた。
現時点では、相違点が多く整理しきれていないので、次回は、「樅型」、「若竹型」、そして「蔦型」の相違点についてまとめてみたいと思う。

また、以降、上記見解を明確に否定する資料が出てくるまでは、本ブログでは基本計画番号「F37A」「F37B」の駆逐艦群について、「蔦型」と表記することにする

しかし、「蔦型」でググっても一切情報が出てこないのが怖いところだ。
今まで誰も気づかなかったのか、あるいは誰も二等駆逐艦に興味が無いから気付いても話題にしないのか…駆逐艦好きとしては後者でないことを祈りたい


参考書籍

  • 衣島 尚一『艦船模型テクニック講座Vol.6 日本海軍艦艇図面集 戦艦/駆逐艦/小艦艇篇』モデルアート社、1989年、71頁

参考ウェブサイト

全て敬称略。

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