製作記事を開始してから3ヶ月目にして、やっとこさ工作の話である。
我乍ら、呆れるばかりの下準備の長さだ。
しかし、数年ぶりにプラスチックを削る感触は、実に心地好い。
やはり自分は模型作りが好きなのだと再認識させられた。
さて、遡ること3週ほど前、前回の記事の公開直後、岩重多四郎氏の著書「日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編」が発売されたので、早速入手して前回までの記事と「答え合わせ」をしてみた[1] 。
結果、今迄の妄言…もとい、調べた事は概ね正解っぽいようだ。とりあえず一安心。
なんせ今までは、ウェブ上でも書籍でも、横幅以外は「樅」~「若竹」までほぼ同型、といった大雑把な情報ばかりで、サブタイプの違いまで検証した情報が皆無に等しい状況だった。
故に、前回までの記事も果たしてどの程度正鵠を射ているのか、不安で仕方なかったのだ。
ただ惜しむらくは、この本が4月頃に出版されていれば、ここまで回り道をする必要も…いやいや、そんなことをいってはバチがあたるというものだ。
さあ、製作に掛かろう。
製作対象
今回は「樅型」で1駆逐隊編成というお題なのは、序文で書いたとおり。
しかし。何も考えずに「1駆逐隊」と書いてしまったのだが、調べてみると「樅型」で編成されて大戦参加した駆逐隊は無かった事が判明。
辛うじて、元第26駆逐隊「栗」「栂」に「蔦型」の元28駆の「蓮」を加えた3隻が、支那方面艦隊附属上海方面根拠地隊に所属して現役参加しているのみだった。
おなじみ国立公文書館アジア歴史資料センター (アジ歴) 所収、「支那方面艦隊戦時日誌」(レファレンスコード: C08030035300) 掲載の、1941年 (昭和16年) 12月1日付の編成表[2]内に、3隻仲良く (?) 記載されている。
よって、今回の製作対象は、「樅型」ただ2隻だけの大戦参加組「栗」「栂」と、「蔦型」の「蓮」の3隻に決定。
設定年代
今後、他の艦も年代を合わせて揃えていきたいので、1941年 (昭和16年) ~42年 (昭和17年) 初頭、太平洋戦争開戦時頃の状態を目安とする。
何故、開戦時で揃えるのかといえば、これは専ら「各艦の装備はより近代的な方が好みだが、連合艦隊旗艦は長門でなくてはならぬ」という、長門への偏愛に起因する。
さて、設定も決まり、いよいよ工作である。
まずは船体から。
全長の延長
第2回で触れたとおりハセガワのキットは水線長を全長と誤って設計されていると思われるため、やや短い。
前回作図した製作図面と照らし合わせ、後部煙突直後で5mm、プラ板で延長した。
全長の不足幅は計算上4mm強だが、鋸の「切りしろ」が入るので、差し引きで丁度良い長さになる。
また、船首楼の長さが約1mm不足するので、後端を1mm、プラ板で伸ばし、ついでに発射管前方の開口部も再現してみた。
全幅の拡張
平面図と比較すると上甲板の全幅がやや不足していようだ。
F37系列の船体はいずれもタンブルホームなので、片舷につき、上甲板で約0.3mm、水線で約0.7mmと、やや下膨れにプラ板で太らせた。
数値的にはもう少し太らせても良いようだが、船体全体のライン修正に及ぶ大工事となってしまうため、割愛。
乾舷の調整
大戦期の若竹型の芙蓉などの写真を見ると、装備追加の影響か喫水が深くなっている模様。
艦底板を省略してもまだ乾舷が高いので、更に船体下端で0.5mm程度削り込み、腰を落とした感じにした。
上記の工作を行った状態が下の写真である。
後部砲座がないと、なんか哨戒艇改造後の姿に見えるね。
今度は上面から。
キットが、比較的構成要素の少ない後部煙突以降で辻褄を合わせているのがわかる。
以前、金剛型のキットを作った際も感じたが、どうもハセガワの艦船模型は他社キットに比べて細身で腰高な造形アレンジ傾向があるように思う。
両者とも高速艦なので軽快さの演出なのかもしれないが、ちょっとやりすぎの感がある。
今回の工作で重心が下がり、おもちゃっぽい印象が薄れたと思うのだが、どうだろう。
参考書籍
- 岩重 多四郎『日本海軍小艦艇ビジュアルガイド 駆逐艦編』大日本絵画、2012年、18-22頁 ^1
参考ウェブサイト
- 国立公文書館アジア歴史資料センター
- Ref. C08030035300「昭和16年12月1日~昭和19年5月31日 支那方面艦隊戦時日誌 (1)」防衛省防衛研究所所蔵、海軍省 支那方面艦隊司令部、
1941年12月1日-1942年7月31日、8頁 ^2
- Ref. C08030035300「昭和16年12月1日~昭和19年5月31日 支那方面艦隊戦時日誌 (1)」防衛省防衛研究所所蔵、海軍省 支那方面艦隊司令部、
全て敬称略。