天龍と龍田の相違点を検証する: 前篇 – 続・1/700で天龍型軽巡をつくる: 1

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天龍と龍田の相違点を検証する: 前篇 – 続・1/700で天龍型軽巡をつくる: 1

例によって、本格的な工作の前にお勉強回である。

両艦の違いについてはスクラッチした時に粗方調べ尽くしたと思っていたが、改めて調べてみると意外な発見がある。

ただ、問題は、その発見が必ずしも「天龍型」にまつわるものとは限らない、と云う事だ


キットで再現されている「天龍」「龍田」の相違点は以下の通り。

  • 艦首旗竿支柱の向き
  • 羅針艦橋の高さと形状
  • 前檣後脚の見張り台有無
  • 艦橋基部絡車の向き
  • 1番煙突の配管形状
  • 右舷内火艇のサイズとダビット
  • 後檣の継ぎ目
  • リノリウム目地の向き

上記の内、艦首旗竿のような「見れば判る」ものは省き、未だ真相が曖昧な羅針艦橋の形状とリノリウム目地の向きについて、あらためて検証しようと思う。

羅針艦橋の形状

ハセガワ新キットの売りの一つでもある、羅針艦橋形状の作り分け。
従来の資料では、固定天蓋化される前の写真を元に曖昧に作図されていた箇所だが、新キットでは2艦を明確に作り分けている。

「天龍」については、以前取り上げた「一億人の昭和史」の写真に準じた形状であり、私も同様の解釈を採る。とは云え、まさか天下のハセガワがアレに準拠する大胆な解釈を採用するとは思わなかった

「龍田」の艦橋は、天蓋の高さと上面見張り台は再現されているものの、窓一枚あたりの形状が異様に縦長で違和感を覚える。
以前調査した通り、「龍田」の高い天蓋は天蓋内に測距儀を収めたことによると思われる。
なので、窓枠の形状としては、同様に天幕下に測距儀を備えた、天蓋固定化前の「天龍」のそれに準じた形だったのではないか

「天龍」の羅針艦橋: 1934年(昭和9年)天幕直下に測距儀らしき影が見える。[1]

すなわち、下段は通常の風防ガラス窓、上段は測距儀視界を妨げないため、最低限の支柱のみの2段構成だったのではないか。
この場合、上段から風雨が吹き込んでくるので天蓋固定化のメリットが損なわれてしまうのではないかと云う気もする。だが、キットのように縦長のガラスでは、構造上、戦闘時に窓を下げられないのではないかと思う。

天蓋固定化前の「天龍」を元に推定した「龍田」羅針艦橋窓ハセの中の人もこんな縦長窓とは考えてないとは思うが、大手メーカー品では余りに独自解釈に過ぎるのもまずいんだろうね。

この仮説を踏まえた結果が、写真の形状である。下段は天龍同様の形状で、ハセのエッチング窓枠で再現、上段や後半支柱は伸ばしランナーで組んだので大変壊れやすい ()

「龍田」の露天甲板リノリウムは「縦敷き」なのか

ふたつ目は、「龍田」リノリウムの目地方向について。
今回の新キット化で、かなり反響が大きかったように思うのがここ。
艦首尾線に平行する、所謂「縦敷き」で目地がモールドされているが、同社ブログでも「最新の考証に基づき」と、準拠資料を明らかにしておらず[2] [3]、確度の高い資料の有無については不明。

ただ、以前の当ブログでの仮説以降、それを補強する資料として、同じ佐世保工廠建造艦で詳細が不明だった「夕張」「長良」について、おなじみ篠崎敏彦氏より「シーパワー」誌のバックナンバーを貸与いただき、両艦のリノリウムの敷き方が部分的に判明した。

「夕張」艦尾甲板の検証

まずは「夕張」、艦尾のみだが、僅かにリノリウム押さえと思しき線が2条確認できる[4]
左の線は、一見昇降口手摺の影に見えるが、人物の影からすると光源は写真右上であり、手摺ならこの向きに影は落ちない。

「夕張」の艦尾: 1930年(昭和5年)不鮮明だが、白丸の中心あたり、判るだろうか?

先の写真に、「海軍艦艇公式図面集」の「夕張」平面図[5]に目地をあてはめたものを重ねたのが下記。 写真で確認できる2条は見事に一致し、本来見えるべき他の金具は丁度人物の陰に隠れていることが判る (押さえ金具を目印に整列した?)

「夕張」の艦尾甲板敷物の推定: 縦敷き公式図の平面にリノリウム目地をあてはめた図。

「夕張」の艦尾甲板敷物の推定: 縦敷き更にそれを先の写真にあわせて変形。ボラードや昇降口、フェアリーダーなどの構造物を基準に位置合わせしている。

対して横敷きと仮定した場合、この解像度で横向きの目地が一切写り込んでいないのも不自然であり、この写真単独では「夕張」は「縦敷き」とみて良いように思うが、現状、他に縦敷き・横敷きとも云い切れる写真が無く、確定とまではいかない。

「夕張」の艦尾甲板敷物の推定: 横敷きこちらは横敷きとして目地をあてはめた図。

「夕張」の艦尾甲板敷物の推定: 横敷きこの構図で横敷きならば、それなりの本数の目地が見える筈だが、この写真では全く確認できないので可能性は低いと考える。

「長良」最上甲板の検証

「球磨」? の短艇甲板付近 クリックで拡大。「縦敷き」がここまで鮮明な写真は珍しい。

続いて「長良」、こちらはシーパワー誌の写真だけでは特定に至らなかった。しかし、その検証の過程で、意外な発見があった。

世界の艦船の増刊、「日本巡洋艦史」 (2012年版の方) に「球磨」として掲載されている、縦敷きリノリウムの写った2葉の写真、良くみると「球磨型」ではないのだ!

短艇甲板付近の写真[6]の方の識別の決め手は、煙突の識別帯と、前檣三脚楼に掛かる甲板の形状。
まず、識別帯は、5,500t級軽巡にしては珍しく、2番煙突に巻かれている。
これは1922年 (大正11年) ~1926年 (大正15年) 頃の第5戦隊所属艦の特徴
である。

当時、5,500t級を主力に編成された戦隊が2隊あり、ひとつは第1艦隊所属の第3戦隊で、もう一方が第2艦隊所属の第5戦隊である。

この時期の第3戦隊には「球磨型」や「川内型」、「五十鈴」、「鬼怒」、「阿武隈」「夕張」が所属しており、第5戦隊には「長良」、「由良」、「鬼怒」、「名取」、「川内」が所属。[7]
「鬼怒」が重複しているが、これは両隊とも上記が一斉に所属していた訳ではなく、年毎に3~4隻をローテーションしていたため。

第5戦隊所属の「長良」(左): 1925年(大正14年)と、第3戦隊所属の「多摩」(右): 1923年? (大正12年?) 両艦とも3本線だが、これは戦隊内序列の3番艦を示す。[8] [9]

2番煙突の識別帯は、これらきわめて似た艦型と編成の2隊を区別するための措置であると思われる。巡洋艦戦隊では珍しいが、同様の例は、1水戦と3水戦、2水戦と4水戦の駆逐艦で良くみられる。

これにより、件の写真ほぼ「長良型」とみて良いと思うが、演習等で臨時に識別帯を巻いた「球磨型」の可能性もゼロではないので、もう少し検証してみたい。

大演習時の「由良」: 1935年(昭和10年) 変則的な例、3番煙突に斜めの白帯。[10]

前檣三脚楼に掛かる甲板だが、探照燈台の下に2層の甲板が認められ、また、いずれも後脚の脚間より、甲板の後端の幅が広いことが判る。

「球磨」の艦橋付近の比較謎の写真は煙突に雨水除けが無いにもかかわらず、三脚後部まで甲板が伸びており、他の「球磨」の写真と辻褄が合わない。[11] [12]

一見、「球磨型」に見えなくもないが、「木曾」を除く「球磨型」では、竣工時は三脚楼後脚に甲板は掛かっておらず、近代化改装後も後脚の内側のみに設けられた、比較的狭めの甲板である。
また、「木曾」は竣工から、少なくとも1942年 (昭和17年) まで一貫して、下段のみが後脚に掛かっており、上段甲板の延伸は無い。

「木曾」の艦橋付近の比較「木曾」の羅針艦橋は、大戦期でも三脚後部まで延伸されていない。

では「長良型」のどの艦か? まずは、上空写真から当該箇所の「横敷き」が確認できる「五十鈴」「鬼怒」「阿武隈」は除外。[14] [15] [16]

「五十鈴」「鬼怒」「阿武隈」のリノリウム目地本題とは関係ないが、「五十鈴」「長良」は単純な横敷きではなく砲周囲も区切ってあるのに注目。

残る3隻の識別点となるのは、3番煙突後方の小構造物でひときわ目立つ、横長の構造物だ。

1930年 (昭和5年) の「由良」[17] 、1935年 (昭和10年) の「名取」の写真 [18] では、この横長の部屋が無い。
そして、前述シーパワー誌の1936年 (昭和11年) の「長良」の写真[19] では、この構造物がはっきり写っており、上空写真の艦が「長良」の可能性はかなり高いと思う。

「長良」「名取」「由良」の煙突付近角度的に見辛いが、完全一致は「長良」のみ。

総合的に判断すれば最有力なのは「長良」、次いで、リノリウムのパターンが一致する「由良」で、「名取」の可能性は乏しいかと思われる。「長良」であれば、同様に2番煙突に3本線の写真がある、1924年 (大正13年) 度の可能性が高い。


もう1葉の、7番砲付近の写真[20] はどうか。
まず、7番砲直前にある後部操舵所が無いので「長良型」で、砲前方の甲板が左右いずれにも拡張されていない事から、近代化改装前、竣工時~1932年 (昭和5年) 頃であるのも判る。さらに前掲の写真で「横敷き」が確認できる「五十鈴」「鬼怒」は除外

「球磨」? の7番砲付近「球磨型」ならば、7番砲のすぐ前、開口部のあたりに後部操舵所がある。

リノリウムの「縦敷き」以外に特徴的なのは、7番砲座右舷後端、縦に2本並んだキノコ型通風筒である。
シーパワー誌の1936年 (昭和11年) の「長良」の別カット[21] は通風筒の並びが一致するが、1943年 (昭和18年) の「名取」の写真[22]では2本の通風筒は横並びなので除外。「由良」と「阿武隈」は不明。
こちらも「長良」の可能性が最も高く、次いで「由良」、「阿武隈」か。

「長良」「名取」の7番砲付近こちらも完全一致は「長良」のみ。

以下に謎の2葉の写真を並べてみたが、この「球磨」とされていた2葉は光源の角度や粒子の感じが酷似しており、これを同時かつ同一艦のものとすれば、全ての特徴に合致するのは「長良」と断定できるが、撮影データについて確たる証拠が無いのが残念。

「球磨」? の短艇甲板・7番砲付近同一条件の撮影の様に思えるが……?

これで、以前より確認できていた「球磨」「北上」「由良」と併せ、「長良」「夕張」も100%では無いものの「縦敷き」の可能性が高く、前回の検証より確度は上がったと思う。

かなり遠回りしたが、現状では「龍田」の露天甲板のリノリウムは「縦敷き」の可能性が高いと、再度、結論する。
ちなみに、その後、佐世保で最初に建造されたリノリウム敷きの艦は駆逐艦「夕凪」だが、こちらは写真からするに「横敷き」の可能性が高く、佐世保の「縦敷き」リノリウム艦は「由良」が最後と云う事になる。

ちなみに、広い面への「縦敷き」は他工廠製の敷設艦などでも確認でき、個艦単位では特に佐世保の専売特許と云う訳ではない
ただ、こうして短期間に連続して施工された事例としては、この時期の佐世保工廠が唯一のものではなかろうか。


「龍田」の検証の筈が、まとめてみれば今回はほぼ「長良」の検証に ()
次回はちゃんと「龍田」に戻り、キットでは再現されなかった相違点について検証したい。
あくまで予定だからどう転ぶか判らんけどな!!


参考書籍

  • 『日本巡洋艦史 世界の艦船 2012年1月号増刊』海人社、2011年、81頁^1、180頁^6、75頁^16
  • 中川 務「平賀デザインの申し子 軽巡『夕張』」『シーパワー 1989年2月号』シーパワー、1989年、59頁^4
  • 福井 静夫『海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1992年、60頁 ^5
  • 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ32 軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年

    • 遠藤 昭「5500トン型巡洋艦の識別ポイント」99-100頁 ^7
    • 「クローズアップ写真選」62頁 ^17
  • 『写真 日本の軍艦 第8巻 軽巡I』光人社、1990年、54頁^8、135頁^9、209頁^10、191頁^18
  • 福井 静夫『写真 日本海軍全艦艇史』KKベストセラーズ、1994年、280頁^11、285頁^13、288頁^14、295頁^15、242頁^22
  • 中川 務・戸高 一成「中国大陸沿岸における『球磨』と『霧島』」『シーパワー 1989年月号』シーパワー、1989年、47頁^12
  • 中川 務・戸高 一成「上海に入港した『長良』」『シーパワー 1991年12月号』シーパワー、1991年、62頁^19、63頁^21

参考ウェブサイト

全て敬称略。

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