前回、前々回で述べたように、「天龍型」の平面図は一般には流通しておらず、甲板上の諸装備は多くの部分を推定に拠ることになる。
今回はそれらの中から上甲板関係の3つの事について、例によって妄想を交えつつ考えてみたいと思う。
上甲板・船首楼甲板の基本工作
樅型駆逐艦の際と同様、露天甲板部分はハイパーホビーの「プラストライプ」の2.5mm幅を敷き、凹線リノリウム目地を再現。
その上から、プラストライプの各種幅を組み合わせて、舷側縁のスパンウォーターや洗い場等を再現した。
スパンウォーターの区切りとなる樋の位置については、後述の洗い場の項でも触れるが、写真から舷側に落ちる樋の影を元に割り出した。
スパンウォーター部分の幅は、「長良型」の「五十鈴」の上空写真[1] では、1/700換算で概ね0.3mm~0.5mm幅くらいに見える。
ただし、短艇周りは1mm~1.2mm幅位と、やや広くなっている。恐らく、ボートダビット基部をスパンウォーター部分に収めるためだろう。
「天龍型」と「長良型」は設計上は同じ系譜上に連なるものなので、この方式に倣い、短艇周りのスパンウォーターを1mm幅、他を0.5mm幅とした。
それらの工作を進める上で、気になったのが以下の3つ。
「龍田」のリノリウム甲板の、敷設方向についての仮説
クリックで拡大。写真が無いので確証は無いが、「龍田」のリノリウムは首尾線に平行に敷かれていた筈。
「天龍」については甲板上の鮮明な写真があり、一般的な首尾線に直交する敷き方 (以下、便宜上「横敷き」) でリノリウムが敷かれていることが判る。
だが、「龍田」のリノリウム押さえは、艦首尾方向に平行に敷かれている (以下、便宜上「縦敷き」) のではないかと思う。
その根拠は「龍田」の直後に建造された、軽巡「球磨」「北上」「由良」にある。
3隻とも「龍田」と同じ佐世保工廠製の艦で、「球磨」が1920年 (大正9年) 、「北上」が1921年 (大正10年) 、「由良」が1923年 (大正12年) の竣工艦である。
これら「球磨」[2] 「北上」「由良」[3] の3隻は、写真から露天甲板のリノリウムが「縦敷き」なのが判る。
やや不鮮明だが、短艇周辺や後甲板あたりにリノリウム押さえが写っている。
同型艦を含む、同時期の他工廠製の艦には「縦敷き」が確認できる写真がないことから、これは佐世保建造艦固有の方式ではないかと思う。
上記の各艦の状況より「球磨」の前年、1919年 (大正9年) の竣工である「龍田」の露天甲板のリノリウムは「縦敷き」である可能性が高いと推測した。
残念ながら、「龍田」や、同時期の佐世保生まれである「夕張」「長良」では甲板のリノリウム押さえが写っている写真が無いため、この時期の全ての佐世保組がそうであると断言まではできないのが痛いところ。
その後、1937年 (昭和12年) 竣工の「夕立」では「横敷き」[4] になっており、リノリウム黎明期の試行錯誤の一過程だったのだろう。残念ながら、大正末~昭和初期の佐世保建造艦では敷物の向きが確認できる写真を見つけられなかったので、明確な移行時期はわからない。
リノリウム登場以前の木甲板時代には、甲板材を「縦敷き」にするのが一般的だったので、リノリウムでも「縦敷き」の方がしっくりくるように思えるが、何故廃れてしまったのだろう?
「天龍型」の爆雷投下台についての仮説
学研の「真実の艦艇史2」掲載の、田村俊夫氏による「一般計画要領書」等からの考察では、「天龍型」の爆雷投下台は竣工当時に4基、太平洋戦争開戦後に更に4基追加の計8基となっている。[5]
また、その装備位置は、当初の4基が艦尾の機雷敷設軌条のすぐ両脇、追加の4基がその前方両舷のフェアリーダーを挟み2基ずつ配置とされている。
だが、1934年 (昭和9年) の艦尾付近の写真[6] では、同位置に投下台らしきものが写っておらず、機雷用または副錨用と思われるダビットが設置されている。
フェアリーダー前方は写真では影に潰れてしまいやや不明瞭ではあるが、爆雷投下台が有るように見える。。
フェアリーダー直前に見える2つの三角形の板が投下台では?
元となった「一般計画要領書」の記載では、「天龍型」計画時点の爆雷投下台は「手動1ヶ 2」「4ヶ積 2」[7] とある。この「4ヶ積」とはどのようものか。
森恒英氏の「日本の巡洋艦」の図解では、1個積みと2個積み形式の投下台については説明されているが、その形式のまま4個分まで奥行きを拡張すると、戦争後半に装備された爆雷投下軌条のようなバランスとなり、機雷敷設軌条と干渉してしまうはず。
一方、駆逐艦「白露型」[8] や「睦月型」[9] の一部の艦では、艦尾の機雷敷設軌条が爆雷投下台を兼ねている。
これは大戦後期に装備された爆雷投下軌条とは異なり、機雷の長手方向と軌条を並行させて投下するもので、「白露型」の図面では5個の爆雷が描かれている。
「4ヶ積」がこの機雷敷設軌条兼用型の事とすれば、独立した投下台は当初2基だけとなる。
この2基が先の写真において、フェアリーダー前方に装備されていたとすれば、必要な奥行きは爆雷1個分だけなので、設置スペース的にも辻褄が合う。
よって、現時点では1941年 (昭和16年) 頃までの「天龍型」の爆雷投下台は、機雷敷設軌条兼用の4個積型が1対と、フェアリーダーより前に手動1個積型が1対の組み合わせ、と推測する。
爆雷投下台の内1対は、機雷敷設軌条と兼用と思われるが、通常の敷設軌条と見た目が異なるのかは不明。
増備された4基の位置については、現状、ディテールが判る写真が1葉もなく、残念ながら全く判断がつかない。
「天龍型」の洗い場の位置についての仮説
洗い場は、ハセガワのキットでは後部発射管両脇にモールドされている。
だが、1934年 (昭和9年) の発射管付近の甲板を映した写真[10] には洗い場は存在しない。
では、どこにあるのか?
ハセガワのキットの位置に洗い場は無い。
舷側に落ちる影から上甲板の排水樋の位置を推定すると、短艇付近は各短艇の前後、それ以外は概ね等間隔に設けられている。
しかし、2番煙突横の真ん中の短艇の箇所だけ樋が多い。
また、この辺りだけ樋から流れる水垢が目立ち[11] 、この短艇直下が洗い場ではないかと思う。
10年の期間を経ても、同じ樋からの汚れが目立つ。
クリックで拡大。建造時期を考えると、ほぼ同時期の「若竹型」駆逐艦などと似たような洗い場の形式でもおかしくない筈。
ほぼ同時期建造の駆逐艦「若竹型」の図面でも、短艇直下に洗い場を設け、また、そこだけ他の短艇周りより樋が多いという構造になっている。[12]
恐らく、これがこの時期の建造艦の標準的な洗い場の設置方法ではなかったのだろうか。
今回の3題の内、爆雷投下台の位置の件は、一度田村氏の説通りの配置で製作した後、この記事を執筆する際に、念のため、と「一般計画要領書」原典の当該項目を確認していて気づいた。
当然、一旦作った投下台まわりはすべて撤去して作り直しである。
やっぱり今回も、この辺りの勇み足というか、迂闊さが治ってないなと自嘲。
参考書籍
- 『歴史群像 太平洋戦史シリーズ32 軽巡 球磨・長良・川内型』学習研究社、2001年
- 高木 宏之「日本巡洋艦の技術史」『日本巡洋艦史 世界の艦船 2012年1月号増刊』海人社、2011年、180頁・188頁 ^2
- 田村 俊夫「『初春』型戦時兵装の変遷」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ57 帝国海軍 艦載兵装の変遷』学習研究社、2005年、153頁 ^4
- 田村 俊夫「日本海軍最初の軽巡『天龍』『龍田』の知られざる兵装変遷」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ51 帝国海軍 真実の艦艇史2』学習研究社、2005年、93-94頁 ^5
- 日本造船学会「一等駆逐艦 睦月型 長月 一般艤装図」『明治百年史叢書242 昭和造船史別冊 日本海軍艦艇図面集』原書房、1975年、84頁 ^9
- 福井 静夫『海軍艦艇公式図面集』今日の話題社、1992年、124-127頁 ^12
参考ウェブサイト
- 「Japanese cruiser Tenryū」『Wikipedia, the free encyclopedia』、2013年12月閲覧 ^6 ^11
- 桜と錨「桜と錨の海軍砲術学校-史料展示室『一般計画要領書』(旧海軍艦艇要目簿・要目表) 造工史料」『桜と錨の海軍砲術学校』、2011年 ^7
- 老猿「白露型」『海に憧れる山猿』、2011年 ^8
全て敬称略。
ツイッターの夕張のリノリウムの話を見て思い出したことがあるのでご報告を、
学研の太平洋戦史シリーズNo.70完全版特型駆逐艦の21ページに夕霧の艦中央部の明瞭な写真があって右舷側のリノリウム押さえがはっきり見えるのですが…。縦敷きというかなんというかどう捉えていいのか分かりづらい複雑なパターンをしています。舷側側と中央側で縦2列に敷いているんですが前後幅が中央列第一煙突基部とその後ろと舷側列の3つで全く違っています。前後幅の長いパターンが2つ見受けられるので基本ここは縦敷きと思うのですが、正直こうも規則性が不明だったりすると全体像の想像すらできません。この写真を反映した作例や図面を見たことないんですがみんなお手上げだったんでしょうかね?あと難儀なことに夕霧は舞鶴工廠製だったりします。とりあえずご参考になれば。
篠﨑さま
手元の同書を見ると、確かに、ハッキリと首尾線方向に抑え金具が走ってますな。
しかも、その前後のページにある、他の綾波型と明らかに違うという。
同書の漣は、船体中央部左舷は縦っぽいですが、艦尾は横なので、夕霧もすべて縦ではなく、混在の可能性も有りますね。
特型はピットの新装備品セット待ちで全然リサーチをしていなかったのですが、敷物のパターンに各艦試行錯誤の跡が垣間見えて興味深いです。
幸い、兵装については同書で田村氏がほぼパーフェクトアンサーを出されているので、それと併せて特型全艦作り分け、なんてのも可能なのかもしれません (何年かかるんだ???)
お返事が前後して申し訳ありませんが、先日いただいたメール、今、編集中の記事の更新と、来週のリアル引越が終わった後に、じっくり拝読の上、返信致しますので、今しばらくお待ちくださいまし。